演劇でしか表現できない面白さを追及する劇団 絶対安全ピン

演出家あいさつ~「死」以外のことを考えながら

この『one way』という芝居には「死ぬ」という言葉がやたらに登場する。(そういう芝居は世の中にたくさんあるので別にこれはネタばれという程ではないと思っていただきたい)
7月に入り稽古も佳境にさしかかったある日、思うところあって、公民館の葬儀スペースを借りて稽古をやってみた。地下にあるその場所はひんやりとした空気に、抹香のにおいが立ち込め、暑苦しい地上とは別の時間が流れていた。
「効果」はすぐに現われた。「死ぬ」という台詞が、いつもの稽古ではあり得ないような、ゾッとするような響きを持って迫ってきたのである。そして自分たちがやろうとしているものが、そういう台詞・そういう芝居だということを、我々はその時初めて理解したのである。どうして今まで気付かなかったのか。我々の何人かは、近親者の死を経験したこともあるのだが、「それとこれは別」ということなのかもしれない。しかし、ゾッとしたということは、「別」ではないのかもしれない。

芝居の中で出来る事と、出来ない事がある。例えば本当の火や水を使うことは、出来る。同様に、本気の暴力やセックスも、まあ、出来る事である。
「あれ、本気で殴ってたよね」「うん、痛そうだったね」
つまり、それらは「リアル」な芝居、ということになる。
反対に、死ぬことは、絶対にできない。本当に死んだらそれは芝居ではなくなる。もっとも、何を「芝居」と呼び得るかの基準は、文化的・社会的コードである。今後の社会変化によっては、
「あれ、本当に死んだよね」「うん、明日の代役いるのかなあ」
という風に舞台上の「死」を「リアルな表現」の一種とみなすようになるかもしれないが、
今のところは、まだ(?)そういう社会ではない。今のところは「芝居」で死ぬことができない社会。
そこから私は、芝居の中で出来る事と、出来ない事の違いを推測した。
もしかして舞台上で出来ない事とは、単純に「知らないこと」なのではないか。より正確にいえば「知ることができないこと」。
例えば、人を殴ることやセックスは、経験しうることである。
反対に、死ぬことは「経験」できない。死んだことのある人間は、一人も「この世にいない」。
誰にとっても死ぬ時は初体験である。だから「死」とはどういうものか、我々は誰一人答えることはできない。

今のところ芝居では「死ぬこと(=知らないこと)は、できない」。それは、決してモラルではなく、単純な事実にすぎない。しかし私はそこに「怪力乱神を語らず」「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」に似た健全なバランス感覚が、まだ現代の社会で死んではいないことを予感する。そんな希望を込めて、この『one way』という芝居は作られている。

絶対安全ピン 黒田圭